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ファストネットレース参戦記

記:児玉 萬平

筆者 シェルブールからカウズへの回航にて


若手でなくていいの?

JORAの本来の組織目標が、若いセーラーに世界への挑戦のチャンスを与えよう、というものにもかかわらず、アラ70の私が世界3大クラッシクヨットレースの一つであるファストネットレースに乗る、というのはチョットとなあ、という疑問を心の片隅に持ちながらも・・北田さんの「JORAのメンバーにはクラス40の走りを体験しておいてもらいたい」という言葉に押されて、事実上無抵抗に乗らせてもらうことになった。私にとってファストネットレースは34年ぶりの夢の実現だったからだ。

当時NORC(日本外洋帆走協会、JSAF外洋の前身)は国別対抗戦であるアドミラルカップに当時の名艇サンバード、月光などを代表艇として日本チームを結成、挑戦し続けていた。英国南岸ワイト島のカウズからアイルランド南東端の岩礁ファストネットロックを回ってプリマスに戻る610マイルのファストネットレースはこのアドミラルカップの最終戦に組み込まれていたが、15名が犠牲となった1979年の大量遭難事故に代表される過酷なレースとして存在し、それを走り切ることはファーストネッターとして一種の憧れの対象ともなっていた。

当時、私はNORCの財務担当理事として日本チームの挑戦をバックアップする役割を担って、かのカウズの地に赴いていたが、残念ながらそれはプレイヤーではなく、ファストネットロックに向かってスタートしていく輝くばかりのレース艇を見送るだけの存在であった。その時抱いた、いつかこの海に挑戦したいという思いと夢は馬齢を重ねるごとに忘却の彼方に飛んで行き、完璧に地の底に埋もれていたのだ。

 

日本艇、24年ぶりの挑戦

その後もアドミラルカップには関西ヨットクラブチームなど日本の挑戦は続いたが、1993年、アメリカズカップへのトレーニングを兼ねたニッポンチャレンジのメンバーらによる挑戦が最後となり、その後ファストネットレースに参加する日本艇はいなくなった。が、今年になって、Class40のチャンピオンシップシリーズに組み込まれている同レースに、北田さんが貴帆での参加表明をした結果、24年ぶりの日本艇の出場が実現した。

北田さんにとって、昨年のトランザット、今年5月のノルマンディーチャンネルレース、7月レ・ザーブル・オルタ往復などソロ・ダブルハンドで数千マイルものレースをこなした後では、たかが610マイル、5人で乗るファストネットレースは余禄の様なものではあると思うのだが、360艇もの大フリート、マルチハル、VOLVOオーシャン、IMOCA60、Class40からIRCのMaxiから30ft、船齢50年の艇まで、ありとあらゆる艇が一緒にその厳しい海を走るレースは、どうひっくり返っても日本では味わえない、少なくとも残された時間が少ない自分にとっては、そこにいること自体が至福の時間と思えた。

レーススタート時の海上

 

日本人のレースにこだわる

欧米のレースで活躍している日本艇(日本人オーナーの艇)は意外と多く、しかも結構良い成績を残している。ただ、余り知られていないのは、その活躍が個人にとどまり、チームも日本人オーナーと欧米のプロクルーで構成されるが故に、純粋な日本チームとは認識されていないせいだと思う。ただ海外で日本艇として良い成績を残すにはそれが最も早く確実な道かもしれない。

ただ、北田さんはチョット違う・・。貴帆をフランスの造船所で建造しながら、JCI(日本小型船舶検査機構)の係官をフランスに呼んで、日本船籍としての検査を受ける。そのために日本国内にだけ通用する余分な装備をあえて積み込む、といったこだわりを持っている。

当然、レースに向かう姿勢もそれを貫いている。今回のファストネットレースもフランス人プロコーチ、ジャンが回航・レースともに同乗しているが、回航前の準備段階から「ジャンは体力・経験・技の全てにわたって我々より優れており、何でも出来るかもしれないが、レースの主体はあくまで日本人だ、アドバイザーに徹して欲しい」とのメッセージを繰り返し発信、ジャンもまたそれに応えようと努力している姿が印象深かった。

逆に言えば、我々日本人クルーにはレース主体としての自主性が求められるのだが、少なくとも私にとっては、慣れない艇でその要求水準を満たすには多少のプレッシャーを感じたことも事実だ。

プロコーチ ジャンさん

 

ノスタルジック・ジャーニー

私の今回のファストネットレースへの参加は、追体験の旅ともなった。貴帆のホームポートである仏ロレアンに着き、早速貴帆が泊っているLa Baseに向かったのだが、そこで最初に目にしたのはエリー・タバリーのペンディックVの姿であった。
約50年前、この30数フィートのアルミ艇を油壷の泊地で見た。ヨットを始めたばかりの学生の目には異星から来たUFOの様に見えた。当時、単独太平洋横断レースが企画され圧倒的な速さで三崎港にフィニッシュ、あまりの速さにコミッティーのワッチが間に合わなかったと聞いた。その後しばらくは油壷に浮いていたのだが、それが今ではフランスの海の英雄エリー・タバリー記念館の動態展示艇として他のペンディック・シリーズの艇とともに完璧に整備され静かに舫われていた。展示説明には、同艇が今に続く大洋横断レースモノハル艇デザインの基礎となったと書かれている、確かにワイドトランサム、左右のウォーターバラスト、全アルミ船体・・革新の塊だったのだ。

ロレアンは貴帆のクラス40ばかりでなく多くのIMOCA60のベースでもあり、VO65(Volvo Ocean艇)「Dongfeng」や巨大フォイリング・トリマラン「GITANA17」など、世界中を走り回る新鋭艇の基地でもある。それらが第二次大戦の戦争遺構であるドイツ軍の巨大Uボート格納庫ブンカーの前に舷を並べている姿は異様でもあるが、現代の新鋭艇の基地として存在することに妙に納得させられる風景でもある。

ロレアンからシェルブールを経由してカウズに艇を回航して、レースに参加するのだが、このコースもまた心躍るものがあった。私の愛読書にセシル・スコット・フォレスター著のホレイショ・ホーンブロワー・シリーズ、アレグザンダー・ケント著のリチャード・ボライソー・シリーズなどイギリス海軍士官を主人公とした海洋冒険小説シリーズがあるのだが、そこに描かれている世界がまさにこのビスケー湾、英仏海峡の沿岸が舞台なのだ。

ウエッサン、オルダニーなどのフランス沿岸の島々、海峡を渡ってレース中にはニードルズ、スタートポイント、リザードポイント、ペンザンス、ラウンジエンド・・様々な岬の名が小説の主人公の活躍シーンとともに蘇ってくる。レース中はコクピットからナビゲーションワークをしているジャンの肩越しにPCのチャート画面をのぞき込んで、そこここの岬の沖で行われたであろう様々な活劇シーンと重ね合わせていた。小説では圧倒的に英国側が有利に書かれているのだが、現代の戦闘(ヨットレースの・・)ではフランス側に大いに分がありそうだ。

シェルブールではカトリーヌ・ドヌーブのデビュー作であるミュージカル映画「シェルブールの雨傘」の撮影現場がそのまま残っており、青春時代の感傷に一人浸ってみたが、北田さんも含めて若い世代は同作品の存在を知らないという事実に軽くショックを覚えた。

ジェネレーションギャップついでに・・軍港の町シェルブールには海洋博物館があり、様々な潜水技術の展示がされていたが、その入り口に展示されていたのは深海探査船バチスカーフ、小学生の頃、日本海溝1万メートルの深海に潜る同船のニュース映画を食い入るように見、その黄色い船体が波間に沈んでいくシーンが目に焼き付いている・・・まあ、我々世代しか知らない話か。

シェルブール 海洋博物館にて

 

ファストネットレースのルーティング

スタート地点であるカウズにはスタート2日前に回航、参加艇1000隻を超えるカウズウイークの最終日、カウズの町を上げてのお祭り騒ぎの真っただ中に到着した。ジャンと若手2人の船泊り組は仮設ナイトクラブでだいぶ羽目を外した様だが、北田さんと私はホテルで就寝・・となるところ、現役ビジネスマンである北田さんは、打ち合わせやメールのやり取りでスタート前まで拘束されていた。

カウズにて

カウズ/レースヴィレッジの様子

レースのルーティング(進路選択)の方針決定は北田さんとジャンの役割だ、最新の天気予報に合わせての修正はルーティングソフトで対応できるが、ファストネットレースのルーティングの肝の一つは潮汐流、4ノット前後の潮が東西に行き来する。まさにレース当日が満月の大潮、潮の読みを間違えると立ち往生ばかりか逆に戻されてしまう。どの時刻にどの場所に位置させるか、ナビゲーターにとって、すべての情報を経験に照らし合わせて総合的に判断しなければならない神経戦でもある。
ルーティングのもう一つの課題はTSS(Traffic Separation Scheme:海上交通区分帯)の存在だ。主催者から提示されるSI(帆走指示書)にはTSSを航行してはならないと記されているが、その場所が英国の西南端のランジエンドとその沖にあるシリー諸島の間の大部分、さらにはファストネットロックを回り終え帰路に就こうとするその場所に大きく立ちはだかっており、レース艇にとっては迷惑極まりない存在だ。しかもそこには航路ブイなどは無く、言ってみればTSSは仮想回航点として存在し、ナビゲーターはチャートプロッターとにらめっこしながら転針点を決めることになる。

実際、2日目の夕方、先行艇集団が追潮に乗って難なく通過して行ったランジエンドに我々が差し掛かったところで転流時となってしまった。まさに我々の目の前でゲートが静かに降ろされた形となり、仕方なくその先にあるTSSを大きく迂回してファストネットロックに向かうことになった。

 

貴帆チーム

写真左から:北田さん、ジャンさん、中西さん、志賀さん、筆者

北田さん:オーナー・スキッパー。どこに行ってもClass40の仲間にハグされる。と、同時に彼らから強くリスペクトされているのが良くわかる。たった2年という短い時間にその評価を作り上げたのはトランザットの完走、それに続くメジャーレースへのチャレンジ、それにも増して彼らのコミュニティーに積極的にかかわっていく北田さんの姿勢によるものだろうと思う。

ジャンさん:コーチ兼ナビゲーター。どこでも誰でもフランス中で彼を知らないヨットマンはいないのじゃないかと思わせる実績と人付き合い。しばしば飛ばす冗談と鼻歌の裏には真剣にヨットに向かう姿が垣間見える。初めのうち彼のフランスなまりの英語が理解できなくて往生した。

中西さん:マンデーナイト(日本で唯一のClass40艇)のメンバー。舵を持ったら無理やりにでも引き離さないといつまでもワッチを続けているヘルムスの虫。豪快な笑いとジェスチャー英語を駆使するムードメーカー。

志賀さん:JORA修行中の若手。学生時代は470、その後J24,メルジェスのチームに参加、そして自らの意志でJORAでオーシャンレースの修行を始めた。ジャンから何かにつけて「シガ!」と呼ばれ、直伝の指導を受けている。ジャンの英語を通訳できる。

そして私 児玉:外洋レース経験だけは50年と長い。普段は自艇「Thetis4(First40.7)」で国内長距離レース、ショートハンドレースに参加し続けている。私を除くレースメンバーはClass40の経験が豊富だが私は同艇の経験も練習も不足、慣れない揺れによたよた(時には支えられて)しながらコクピットに座る。

 

ソレント海峡のスタート

8月6日、晴天の朝9時30分。
多くのレース艇とともに舷を接して泊まっていたCowes Wharf Marinaをドッグアウト、チェックインの為のゲートボートに向かう。チェックインでは各艇の荒天用セールを上げて通過することが義務付けられており、オレンジの蛍光カラーでできたストームジブ、トライスル(Class40は5ポイントリーフ)を上げたレース艇団がゲートボートに向かう様は、あたかもオレンジ色の羽の蝶々の群れが行進しているかの様なファンタスティックな光景であった。

スタート前日のブリーフィングでスターティングヘルムスマンに指名された私だったが、ジャンの指示通りに操船すれば良いと判っていながらも、RYS(王立ヨットスコードロン)前に設定された半マイル以上はあるスタートライン付近に遊弋する大レース艇団と、傍若無人に走り回る見物艇の迫力に若干の緊張と気後れを覚える。

午前11時、最初のマルチハル艇のスタートに続き、午前11時10分の我々Class40とIMOCA60、約35艇のスタート時刻が迫る。折しも転流したばかりのソレント海峡の下げ潮(追潮)に乗り、18Ktと予報より風速の上がった西の順風に向かってのスタートとなった。陸側(下側)有利とみたジャンの指示でスターボード・タックでポートエンドに向かうも、どの艇も同様の考えを持って塊りになって同タックでラインに上がっていく。エンドまでにはちょっと足りないがこのラインで行ける、と思った瞬間、下からIMOCA60「Hugo Boss」の切り上げを喰う。10ktを超えるスピードで同艇の角の様に天に向いたフォイリング・フィンが恐ろしい勢いで迫って来て、あっという間に先行され、風も取られてしまった。

スタート後は最狭0.5マイルしかないソレント海峡の出口に向かってタッキングを繰り返し、多くのレース艇とのミートをかわしていく。スピードが同じClass40同士のぎりぎりの交錯が続く中では、私のヘルムの反応が遅れてタッキングに失敗する場面もあった。それでも海峡を出るまでの2時間のヘルムスは、以降経験したくてもできない興奮と充実感を味わった。だが、予め予想されていたとはいえ、上位10艇の有力艇のボートスピードは目を見はるものがあり、徐々に離されていくのが我ながら歯がゆかった。

写真左:筆者

 

ファストネットロックまでビーティング

夕刻近くなると、我々から1時間半後にスタートしたMaxiやVO65の艇団が迫ってくる。どの艇も夕日に照らされて輝く黒いセールが美しく、舷側にずらっと並んでハイクアウトするクルーの姿が豆粒の様に見える。ジャンは逆潮に変わった潮を避けるため岸沿いにルートを引くが、徐々に風が落ち、夜半には10kt以下となってしまう。ただ完全に無風になることもなく、時折、風も上がって着実に距離を稼ぐことができたようでIRCの大型艇団には追いつかれずに2日目の朝を迎えた。

ジャンからはしばしばTWA(True Wind Angle:真の風の角度)を50度に落とせ、スピードを重視してくれと指示される。自分の常識では上り角度は落としても、せいぜい45度かと思うのだが、それでは上げ過ぎだと言われる。色々試してみるが5度落とせば確かに0.7kt~1.0Ktはボートスピードが上がるのが判ってくる。

一方、50度を意識し過ぎると逆に落とし過ぎてしまう、この風速では若干リーヘルムの傾向があるようだ。膝にティラー・エクステンションを挟み込んで極力舵の動きを止め、膝の動きだけで舵を取っていると、思いのほかスピードが上がってくれ気持ちが良い。なんとなく微風の走らせ方がわかってきた様だった。

まる一日以上たった8月7日の夕刻、ランジエンドに取り付いてもClass40の第二艇団はほとんど団子状態、常時周りに十数艇の帆影が見えている。そして前述の潮のゲートに間に合わなかった我々だったが、夜間の風速の上昇に助けられてか、なんとかそれ以上引き離されないで走っているが、頻繁に振れる風に対してルーティングの選択は難しそうだ。
8月8日午後、ファストネットロックまで70マイルもあるのに、回航し帰路に就いたジェネカーランのMaxi艇とすれ違う、昼間のファストネットロックを見たかったが、どうやっても真夜中の回航となりそうだ。

この季節の英国の日没は遅い、日が沈むのが8時過ぎ、9時ごろまではまだ十分な明るさがある。その夕日の中にアイルランドの島々のシルエットが見え始め、そして暗くなったと同時に、未だ相当な距離があるファストネットロック灯台の閃光が見えてきた。周りのレース艇の航海灯が回航点に向かって徐々に収れんするかのように近づいてくる。数えてみると15艇はいる。タッキングを繰り返しながらファストネットロックに近づくので航海灯も赤・緑・白と様々に入れ替わる。

深夜0時55分、ファストネットロック回航、10艇以上(うちClass40は6艇)がほぼ同時刻に回航、A2ジェネカーを展開する。あたかもクラブレースの上マーク回航の様な慌ただしさ、これがスタート後2日半もたっての光景なのかと半ばあきれる。回航時も私がヘルムを取っていたのでファストネットロックの姿をきちんと見ることができなかった。後で撮影に成功した北田さんのスマホ写真を見せてもらったが、満月にシルエットで浮き出される屹立したファストネットロック灯台の姿に神々しさを感じた。ゆっくり生で味わえなかったのは残念だ。

 

迫力のジェネカーラン

回航後、目の前に横たわるTSSの端(仮想回航点)を越えたところでジャイブ、長いポートタックのパワーランに入る。風は17kt~22kt、速度は軽く14ktを超える。キールは常時キーンという金属音にも似たバイブレーションの音を発している。時折入る25ktオーバーのブローでは20kt以上のサーフィングが連続する。ヘルムは北田さん、中西さんが担当、二人でどこまで速度が伸びたか競い合っている。私にとっては、この程度の風でごく自然に14ktを越えていくClass40のパフォーマンスに驚嘆するばかりだ。ましてや20ktオーバーの体験は全く異次元、未知の世界の体験だった。今回の最高速度は23.6ktを記録。

スプレイも半端なく、石礫のように飛んでくるが、良くデザインされたハードキャノピーと適度に角度のついたベンチのおかげで快適に過ごせる。波が左程大きくない海面では、マニュアルよりかえってオートパイロットに任せた方が直進性に優れているということで、しばしばオートパイロットにヘルムを任せたが、流石にこのパワーランでは、サーフィング状態を維持するにはマニュアルでなくては対応できなかった。

この快走で、回航後ほぼ11時間余りでシリー諸島の南端にあるビショップロックの手前に到達、そこにあるTSSを回ってプリマスまでの最終レグに入る、風は16kt程度に落ちてきたが、TWA80度から90度のリーチングとなって見かけの風速も上がり、このレグでも平均10kt、時折14ktを超えるスピードでプリマスのフィニッシュラインに近づいて行った。

例によって遅い日没後の薄暮の中、フィニッシュに向かう先行艇のセールに重なって閃光が見える。黒く横たわる岬の向こう側に様々な色の光がフラッシュする、プリマスの町に上がる花火の様だ。それにしても長く盛大だ、フィニッシュラインへの最終アプローチに入っても終わらない、あとで聞くと2日間にわたり大花火大会とコンテストが開催されていたのだ。貴帆はプリマスの港で盛大に打ち上げられる大花火大会のフィナーレ直後の8月9日午後10時12分、まだ花火の余韻が残り見物艇の群れが走り回る中にフィニッシュした。所要時間は3日11時間8分、Class40の優勝艇に遅れること7時間50分、26艇中12位でのフィニッシュであった。

プリマスの町に上がる花火

ゴール

 

プリマス

あまりに多い光や走り回る見物艇に惑わされ、正しいフィニッシュラインも定かではなかったが、プロッターに付きっきりでフィニッシュラインを確認していたジャンのフィニッシュ宣言をもって貴帆のファストネットレース2017が終わった。

運営艇に誘導されて指定されたClass40の泊地に向かうと、陸上サポートのパトリシアさんと清水さんが出迎えてくれた。この貴帆チームの女性お二人は抜群の語学力をもって対外折衝から宿泊、食事に至るまで本当にお世話になった。結構要求水準の高いリクエストを出す北田さんをフォローして、てきぱきと仕事をこなしていたのが印象に残った。

彼女らの存在がJORAの活動基盤を支えていることを改めて認識する。

桟橋でフィニッシュの余韻に浸っていると運営スタッフが来て、「Rolex Fastnet Race Finisher2017」と刻まれたリストバンドを渡される。このバンドを見せれば、水上タクシーもクルー・バーへの立ち入りもフリーだとのこと、良い思い出にもなる粋な小道具だ。

レース中はアルコールを積まない貴帆なので、フィニッシュした途端のどの渇きを覚えるも、クルー・バーが夜中も開いていると聞き、取るものもとりあえず、皆くだんのリストバンドを着け、水上タクシーで対岸マウントバッテンにあるレース本部に向かう。意外と距離があり、肩に担いだ上陸用バックの重さにあえぎながらクルー・バーがある大テントに駆け込み、早速、全員で無事フィニッシュの乾杯をあげた。

翌10日は洗濯、整備、散歩、そしてまたバー(今度は町の・・)に向かう。翌11日の朝、ジャン・中西・志賀の3人は貴帆のホームポート・ロリアンに向け回航に出発、北田・児玉と女性陣は夕刻からの表彰式に出席するためプリマスに残るも、レース期間中続いていた晴天が一転して冷たい西風と驟雨に見舞われた。

そうした中でも、続々とレース艇のフィニッシュが続いている。まだ十数艇がレース続行中という中で、冷たい雨にあたりながらの表彰式だったが、ロレックスの冠を付け、これだけの伝統を持ち、大フリートを対象とした表彰式にしてはあっけないほどシンプルな式であった。形式ばらず、飲み物片手、各クラスの優勝艇のみ壇上に呼ばれ、淡々と進行する様は、ある意味新鮮な印象を持った。

表彰式

表彰式場に隣接するクルー・バーの同じテーブルでビールを飲んでいた気さくなご夫婦とお互いの世間話をしながら、ついでの話に成績を聞いたら、IRC総合優勝艇「Lann Ael 2」のオーナーGaudoux氏だと聞いて「エー!」とびっくり。曰く、「良いボートと良いクルーがあって幸せだ、帰りのランニングは最高だったね」と。

北田さんの友人(正しく言うとClass40仲間は全て友人だが・・)のClass40の優勝スキッパーMaxime Sorelと表彰式の後、町のレストランで一緒に食事をした。まだ30歳前後のあどけない顔をして静かに話すマキシムは橋梁構造計算のエンジニアだという。若いうちからマルチハルのシンジケートに参加し、ヨットの実績を積み上げてスポンサーを見つけ、艇を作り、レースに出続けている。そのための時間を作り出すのに起業し、エンジニアの仕事もスポンサー対応も一人マルチでこなしているという。彼の物腰からはそんなスーパーヨットマンには到底見えない。

左:北田さん 右:マキシム 表彰式会場にて

気負わずに、何の衒いもなく語る自然体のトップセーラー達、私にとってファストネットレース表彰式の印象は、日常の中にあっても一級のチャレンジ精神を普通に持っている、そんな世界観を持った人間たちと時間を共有できた場に参加できた満足感が残った。ただ、半端でない寒さを除いてだが。

 

ただ、楽しかったファストネットレース

フィニッシュの翌日、桟橋で車座になってレースの総括をした。

「児玉さん、レース、如何でしたか?」と北田さんが問う。
私は一言「楽しかった、ただ楽しかった。」と答えた。

今回のレースは、北田・児玉組と中西・志賀組の2時間交代ワッチ、ジャンはフリーワッチとしナビゲーションと必要に応じて手と口を出すこととしていた。歳とともに普段でも細切れ睡眠が常態化している自分にとって2時間ワッチは自分の生活リズムに合わせやすく、コンディションも良い状態を保てたが、2時間のワッチが終わってキャビンに潜ることが私にはちょっと勿体ないという気持ちが強く残ってしまい、他のメンバーにとっては少し邪魔だったのかもしれないが、なるべくならデッキに居たいと思っていた。もちろん眠くなれば横になりたいとは思うのだけれど、今どこにいる? 風はどう? 潮は変わった?レース中の事象は何でも見ておきたい、という思いが強かった。

レース2日目の筆者(左)と北田さん(右)

 

それと前述のように、レースに加えてもう一つの楽しみ、レースコースに沿った追体験によって今まで知らぬ間に存在していた過去の思いとの隙間を埋めてくれるようで、ワクワクしながらお邪魔虫を決め込んでいた。それもこれも、今年のレースは比較的穏やかな天候に恵まれたおかげかもしれないが。

帰国して、シーボニアのマリンショップ「トキ」の社長河口さんと話した。彼は1979年大量遭難の年に月光のクルーとしてファストネットレースに参加、パンチングの連続にリングフレームにひびが入ってリタイヤし、コークに命からがら逃げ込んだ経験を持つ、曰く「あんな寒くてきついレースは、今思い出してもこりごりだ」と。

自分は今年のファストネットレースを心の底から楽しんだ、と思うのだが、一方で河口さんの言う「あんなレース」も・・、どこか怖いもの見たさの思いも半分残っている・・。

いや、そんな贅沢は言わない。今回のファストネットレースの参加が、沈んだ記憶の底にあった夢を引き出してくれただけで充分だ。

 

記 2017/09/08