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2019-09-28

「はらたけしの……海道をゆく」Vol.3

近年稀に見る猛暑……という言葉が使い古されつつあるけれど、そんな今年の夏もやっとのことで涼しくなり始めた9月の半ば、私は小倉駅にいた。

それはなにも小倉競馬に来たわけでも、角打ちの本場で酒を飲もうという魂胆でもなく、戸畑地区にあるNippon Survival Training Center(以下NSTC)を訪ねたのである。 Transat Jaques Vabre 2019に出場するために私に残された最後のクオリファイとして、World Sailing が認可するサバイバルコースとメディカルコースの受講があったからだ。

ニッスイが所有するNSTCは、これまで主に本船乗組員に対してサバイバルトレーニングと応急処置講習を行ってきた日本でも数少ない施設である。そこで今回行われた認定講習会は、高い安全規定をクリアしなければ出場出来ないような外洋ヨットレースへの参加希望者を対象とした啓蒙と後押しを活動の一環とするJORAとNSTCがコラボレーションし、人命救助を仕事として実際に行っていた講師を外国から招聘して実現したフルスペックの訓練としては日本初の試みである。

私以外にも年末に予定されている横浜〜パラオレースや来年のチャイナシーレース、そして沖縄東海レースなどに参加を予定している、日本の外洋レース愛好家が20人ほど集まり9月14〜16日の3日間に渡って居眠りも深酒も許されない分刻みのスケジュールの下、講義と実技に明け暮れた濃密な3日間が過ぎていった。

削られはじめた月が左翼に映っていた。そのまま翼の先端のほうに視線を沿っていくと、その先にはオリオン座のベルトが見えた。まだしっかりと夜のパートの真っ只中にいるはずのユーラシア大陸の上空を西へと翔るジェラルミン製の巨大な鳥は朝の光から逃げていたが、いつかは追いつかれる運命だ。遥か下の方には、眠っているはずの街があり、目を凝らすと微かに灯る人間の暮らしが見えた…。

 

漂えど沈まず…

とは私が以前10年ほど耽読していた開高健作品の中で「花終わる闇」の冒頭に出てくる言葉なのだけれど、私は何故かこの言葉にやられてしまった。

言い当てられたような、共感したいような、教訓にしたいような、しなやかな言葉の強さを感じたのである。

これは帆船が描かれたパリ市の紋章の下の部分に書いてある「FLUCTUAT NEC MERGITUR」(「揺れはしても決して沈まない」)というラテン語から巨匠が引用した言葉とされている。幾たびの戦火に遭い、他国に占領されたりしながらも必ず自らの復権を果たし、自由を勝ち取ってきたパリ市民の心意気を表す言葉なのだ。ノートルダム大聖堂の火災の後もパリ市長はこの言葉を使ってツイッターで呼びかけたという。

私は長く海に出るとき、いつもこの言葉を胸に置く。

9月17日の朝早く、シャルルドゴール空港で違う便だった北さんとおち合って、パリ市内を目指した。

市内に入るのは17年ぶりのことだった。エッフェル塔近くのこじんまりとした居心地の良いホテルにチェックインした後、Transat Jaques Vabre 2019 のオープニングセレモニーまでの間、ホテルから遠くないカルチェラタンの辺りを散策した。遠い昔、南仏でのヨットレースの帰りに、開高健の名作「夏の闇」冒頭の舞台となったと思しきリュクサンブール公園からサンジェルマンデュプレ教会周辺にあった安宿に長逗留したことがあったので、その辺りを訪ねてみたかったのだ。期待通り、石の街は変わっていなかった。ましてやここはパリなのだ…。

5時近くになっても夏時間のパリの陽は高かったけれど、ひんやりした風に舞う落葉が秋を演出していた。そして我々が目指したエッフェル塔近くの、その名も「Theatre de la Eiffel」という劇場には続々とそれらしき人間たちが集まってきていた。パリという大都会にはあまりにも似つかわしくないはずなのに、強烈な存在感を放つ人々…。個性と個性がぶつかり合いながらも、おおらかな包容力と自信に満ち溢れていて、互いを認め合う共同体のような雰囲気は、私がこれまで体験したヨットレースのパーティでは味わったことのない世界を醸し出していた。それは、どこか、独自の世界観を海に求めたヒッピーたちが現代に生き残っているかのようだった……。

 

そして 舞台上で紹介されたすべての乗り手たちが等しく、大西洋という舞台で自分たちの書いたシナリオを演じる役者に見えてきた。

私は今、その中のひとりになろうとしている。今までの経歴などまるで役に立たない、本当の初舞台が待っているかのようだ。その舞台を演じきって初めて、私もこの世界の片隅のひとりとして認めてもらえるかもしれない……。

その夜の舞台が終わった後に振舞われたブラジルのカクテル、カイピリーニャを飲みながら夜空を見上げると、エッフェル塔が建物の間から顔を覗かせていた。パリの舞台装置は完璧だった。
すると再び、あの言葉が蘇った。

「漂えど沈まず……」

2019.9.17 フランス パリ於

TAKESHI HARA

原健(はら たけし)
この度、Transat Jacques Vabre 2019(フランス〜ブラジル4500マイルをダブルハンド)に北田氏とダブルハンドで参戦することが決まりました。これを機に「はらたけしの…..海道をゆく」と題してコラムを連載しております。ぜひお楽しみ下さい。

はらたけしの……海道をゆく

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